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2011年1月14日金曜日

目の色、肌の色@War

Warはエチオピア皇帝、ハイレ・セラシエが1968年にカリフォルニアで行なった演説に基づいてボブ・マーリィが曲を作り歌った。


5/02/2007

Bob Marley "War" - translation

War
Lyrics Bob Marley 

What life has taught me
I would like to share with Those who want to learn...

Until the philosophy which hold one race
Superior and another inferior
Is finally and permanently discredited and abandoned
Everywhere is war, me say war

That until there are no longer first class
And second class citizens of any nation
Until the colour of a man's skin
Is of no more significance than the colour of his eyes
Me say war

That until the basic human rights are equally
Guaranteed to all, without regard to race
Dis a war

That until that day
The dream of lasting peace, world citizenship
Rule of international morality
Will remain in but a fleeting illusion
To be persued, but never attained
Now everywhere is war, war

And until the ignoble and unhappy regimes
that hold our brothers in Angola, in Mozambique,
South Africa sub-human bondage
Have been toppled, utterly destroyed
Well, everywhere is war, me say war

War in the east, war in the west
War up north, war down south
War, war, rumours of war

And until that day, the African continent
Will not know peace, we Africans will fight
We find it necessary and we know we shall win
As we are confident in the victory
Of good over evil, good over evil, good over evil
Good over evil, good over evil, good over evilAoyagi YoSuKe

戦争
詩 ボブ・マーリィ
訳 青柳洋介

人生が僕に教えたことを
学びたい人と分ちあいたい

この哲学が
つまり、民族に優劣をつける哲学が
最終的に永遠に拒否され、捨て去られるまで
戦争は終わらない、と僕は言う

階級がなくなるまで
すべての国で市民が平等になるまで
肌の色が
目の色よりも重要でなくなるまで

戦争が起きる、と僕は言う

平等な基本的人権が
民族に関わらず、すべての人に保障されるまで
戦争だ

その日が訪れるまで、つまり
永遠の平和、世界市民
国際モラル規範の夢が
儚い幻想ではなく、われわれのものとなるまで
達成されなければ、説得を続ける
今は、世界各地で戦争が起こっている

恥ずべき不幸な体制が
アンゴラやモザンビークに課されている体制が
南アフリカの奴隷制が
転覆され、完全に破壊されるまで
そう、世界各地で戦争が起きる、と僕は言う

東でも西でも戦争
北でも南でも戦争
あちこちで、戦争、戦争、戦争、、、

その日が訪れるまで、アフリカ大陸は
平和にならない、アフリカ人は戦う
戦わねばならない。勝つことは分かっている
勝利を確信している
善は悪に勝つ、善は悪に勝つ、善は悪に勝つ
善は悪に勝つ、善は悪に勝つ、と確信している

詩 ボブ・マーリィ
訳 青柳洋介

From Shimokitazawa Harbour on May 2,2007



1/31/2008

大学との連携 - 60sのアメリカ

ボブ・ディランとジョーン・バエズがアメリカのセント・ローレンス大学?かどこかで行なったコンサートのようなものができたら最高だと思う。

音楽でなくても、芝居や踊りなどでもかまわない。ライブでできたら、いいよな。



こちらも、入れとかないと・・・John Coltrane 1963



これも、入れとかないと・・・ エチオピア皇帝ハイレセラシエⅠの1968年、カリフォルニアでの演説に基づいて、ボブ・マーリィが歌った・・・ War



青柳洋介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ボブ・ディラン(Bob Dylan, 1941年5月24日 - )は、アメリカの歌手・詩人・作曲家。本来の本名は、ロバート・アレン・ジマーマン(Robert Allen Zimmerman)だったが、のちに本名もボブ・ディランに改名している。「ボブ・ディラン」の名前は、詩人のディラン・トーマスから取ったとも、また叔父の名前であるディロンから取ったとも述べている。

ミネソタ州ダルースに生まれる。祖父母はリトアニアやロシア、ウクライナからの移民である。父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーン(愛称ビーティ)は、ダルースの小規模だが絆の固いユダヤ人社会の一員だった。

幼少時より家にあったピアノを独学で習得。ハイスクール時代はロカビリーの全盛期で、ディランもまたエルヴィス・プレスリーにあこがれた少年としてロックバンドを組み、音楽活動を始める。また、ハイスクールの卒業アルバムには「リトル・リチャードと共演すること」が夢だと記したりもしている。また、ランボー、ヴェルレーヌ、ブレイクといった象徴主義的な作風の詩人にも、表現技巧など創作上の影響を受ける。

1960年代

ボブ・ディランとジョーン・バエズ、1963年当初はトラッド・フォークやブルースを中心に歌っており、自作曲は少なかった。やがて、プロテストソングやトピカル・ソングなどメッセージ色の強い曲を作るようになり、「風に吹かれて ("Blowin' In The Wind") 」、「時代は変わる ("The Times They Are A-Changin'") 」などの作品を発表した。公民権運動が高まりを見せていたアメリカにおいて、ディランは「フォークの貴公子」として大きな支持を受け、時代の代弁者とみなされるようになった。

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(出典)

http://www.cec-web.co.jp/column/disc100/disc100_13.html

ジョーン・バエズ。1941年、後にスタンフォードやMITで教鞭をとるメキシコ系物理学者の父とスコットランド出身の母の間にニューヨークで出生。従って、生まれながらにして彼女の血には、父方のラテン的情熱と母方からは質実な忍耐強さが混在していた。小さいころから肌の色などで屈折した思いを味わされたりはするが、信仰心豊かな両親のもと、考えることの好きなごく普通の女の子として成長。とくにその天性の透明な美しいソプラノは小さいころから大いに注目された。10代初めから歌とギターを習い、ボストン・カレッジ在学中には、コーヒー・ショップやクラブで歌うようになる。1959年、第1回ニューポート・フォーク・フェステイバルに飛び入り出演するや、熱狂的支持を受けて、一躍スターダムへと駆け上がり、翌60年、第2回フェステイバルに正式出演。このころには、早やフォーク歌手として全米で不動の地位を獲得していた。
大学のキャンパス・コンサートや、反戦や難民救済コンサートには積極的に参加、プロテスト・ソング・シンガーとして、おしもおされぬ存在となり、62年のカーネギーホール・コンサートでは大成功をおさめる。このころ大ヒットした曲が、「朝日のあたる家」「ドンナ・ドンナ」「雨をよごしたのは誰」「勝利を我らに」などである。

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---Wikipedia

ジョン・コルトレーン(John Coltrane、1926年9月23日 - 1967年7月17日)は、アメリカノースカロライナ州生まれのモダンジャズのサックス奏者。テナーサックスをメインとするが、活動の最初期はアルトサックス、1960年代よりソプラノサックス、最晩年にはフルートの演奏も残した。活動時期は、1950年代のハード・バップの黄金時代から1960年代のモード・ジャズの時代、さらにフリー・ジャズの時代と、それぞれの時代に大きな足跡「ジャイアントステップ」を残した。

チャーリー・パーカー(アルトサックス)亡き後、ソニー・ロリンズ(テナーサックス)と並ぶジャズ・サックスの重要人物。モダンジャズのテナーサックス演奏では、コルトレーンの影響下に無いものがいないという状況が長く続いた。

ピアニストのアリス・コルトレーンを妻に、サックス奏者のラヴィ・コルトレーンを次男に、サックス・クラリネット奏者のオラン・コルトレーンを三男に持つ。


[編集] 略歴
13歳でクラリネットを始める。後にアルト・サックスに転向し、1946年よりプロとして活動開始。

1949年にディジー・ガレスピーのバンドに参加し、その頃からテナー・サックスに転向。いくつかのバンドを転々とした後、1955年にマイルス・デイヴィスのグループに入った。この当時はマイルスからも下手だといわれるほどに評価が低かった。しかし次第に才能が開花し、2年後の1957年にはプレスティッジ・レコードと契約して、バンド・リーダーとしてもデビュー。同年にはセロニアス・モンクのリーダー・アルバムにも参加して、音楽的に影響を受ける。そして、独特の演奏スタイルを確立して、後のジャズ界に影響を与えた。なお、コルトレーンの演奏を形容する時にしばしば用いられる「シーツ・オブ・サウンド」という言葉は、音楽評論家のアイラ・ギトラーが、1958年に『ダウン・ビート』誌で使ったのが最初。文字通り、音を敷き詰めたような彼の演奏スタイルをよく表している。

1959年、マイルスの『カインド・オブ・ブルー』に参加し、モード・ジャズという手法を世に示す。同年アトランティック・レコードに移籍し、1960年『ジャイアント・ステップス』発表。その後マイルスのバンドを脱退。

1961年、インパルス!レコードに移籍。一時的にエリック・ドルフィー(バスクラリネット)を加えたクインテットで活動するが、その後は主にマッコイ・タイナー(ピアノ)、ジミー・ギャリソン(ベース)、エルビン・ジョーンズ(ドラム)とのカルテットで幾多の名演を生んだ。1962年にはデューク・エリントンとも共演。晩年は、精神性を強めたフリー・ジャズに傾倒。1965年12月にマッコイ・タイナーがバンドを離れ、アリス・マクロード(1966年にジョンと結婚)が加入。1966年3月にはエルビン・ジョーンズも退団。

1966年7月に来日。9都市を回るという大がかりなツアーであった。記者会見で「10年後のあなたはどんな人間でありたいと思いますか?」という質問に対し「私は聖者になりたい」と答えたというエピソードがある。

1967年5月7日、ボルチモアで最後のコンサートを行う。1967年7月17日、肝臓癌で亡くなる。

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(出典)

http://www.waseda.jp/sem-lateame/02work/jamaica.htm

ラスタファリ運動はジャマイカ特有のメシア運動であり、このメンバーは、エチオピアの皇帝ハイレセラシエが、白人による圧政下にあるこの世界で流浪の身とされたすべての黒人を救済する黒いメシアの現し身であると信じられている。これから、ジャマイカにおける宗教、ラスタファリ運動の歴史的背景、展開、ラスタ的信仰世界を考察することで、ラスタファリ運動に対する理解を深める。

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シンボル

◇ドレッドロックス  

社会への挑発のシンボル。このシンボルはお互いに「ドレッド」と呼ぶラスタたちに一体感を持たせる役割を果たしている。

◇アイタル・フード

自然な状態にあるものを食事として認める。ラスタファリアンは基本的に菜食主義で、身体に有害とされる豚肉はまず食べない。主食としては12インチにみたない小魚や、果物、あらゆる種類のジュースがあげられる。

◇ユダのライオン

ユダ族の征服獅子王、ハイレ・セラシエを象徴するライオン。また、ラスタ社会における男性優位の象徴ともされ、家、旗、礼拝所などいたるところに見られる。

◇ラスタ言語

ラスタファリアンの言語。動詞を用いず、主語と目的語の対立関係を避けるというのが特徴。「われわれ」=「I & I」と言うなど、社会で悩む他者を自己同一視する過程において、二項対立をのり越える魂の言語である。


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