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2011年1月12日水曜日

福岡の魚市場は長浜?

俺は知らねえ~~~

喧嘩と火事は江戸の華@築地魚市場


マグロは築地に適わない、無敵マグロ@ご祝儀、1本、3200万円


銀座と香港で折半だ!



3/19/2009

香港の女性ガイド

ナポレオンフィッシュ


カブトガニ



こちらの注文に答えてくれた。さすが、香港ギャル?!? エンナさんだったっけ? 変な感じのエンナさん?

ガイド側の設定コースと、こちらサイドで自由選択ができる日が半々だった。

面倒な注文にも答えてくれた。その代り、インチキ・タイガー・バームと、Tシャツなどをそのガイドから購入した。

香港の海鮮料理のメッカ、レイユンムン・・・ 高くて、ぼられる場合が多いとのこと。。。 街には、バカでかいシャコが水槽で泳いでいる。

そこで、究極の選択。海鮮料理ツアー。選んだのは、西貢(サイクン、ベトナムでは、サイゴンと読む)。

ガイドは、そのようなところは知らないと言っていたが、運ちゃんと交渉して、連れて行ってくれた。小さな漁師町。

浜から、バカでかいブルーのナポレオンフィッシュを引き上げて、でかい水槽の中に、ばちゃ~~~ん、と投げ込んだ。

市場には、見たこともないバカでかい貝や、シャコ、カブトガニなどがいた。シャコなどを買って、食堂へ持参。料理してくれて、料理代を払って、うまかった。

でも、海鮮料理はそれなりに高い。香港の町場の食堂で、普通に中華料理を食う場合の、2倍強の費用がかかった。


ガイドが連れて行くコースでは、こちらはほとんど買い物はしなかった。単に、欲しいものがなかったからですが・・・

ネイザン通りの百貨店や、ショッピングセンターで自由に買い物をした。

僕の勝負買いは、メガネ。ネイザン通りの適当なメガネ屋で、アルマーニの眼鏡を買った。一日で、仕上がり。

それなりに高かったはず。日本で買うよりは安いが・・・ 数万円はしたはず。その当時の日本の半額くらいなのかな?

金縁の眼鏡をかけると、まるで、香港マフィアのような感じになった・・・

会社にその眼鏡をしていったら、みなさん、変な顔で見ていたが・・・

ばかやろ~~~、おめえらには、おしゃれが分からないのだ~~~、笑い


中国の国境が見える場所にも連れて行ってくれた。こちらが要求した蜂蜜大王の店は、運ちゃんが苦労して探し当てた。あっち行ったり、こっち行ったり。エンナさんも、ちゃっかり、蜂蜜を買っていた。


こういう旅行こそ、ガイドと互恵関係の旅行なのでは?

エンナさんも、変なニッポン人のツアーで、お疲れ? それとも、意外な展開で、楽しかった?

どうなのだろうか?


女性の気持ちは摩訶不思議なので、みなさんのご想像にお任せします・・・


--
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9.11 2008 is 1.1 2001 in Ethiopian Calendar



福岡県の津屋崎人形のニュースがNHKで流れていた。

子供のころ、津屋崎の海水浴場に行った。

そのころは、「カブトガニ」がたくさんいた・・・

香港の西貢(さいくん)の市場には大きな「カブトガニ」が食用として売っていた(10年位前)

香港のシャコは馬鹿でかい。西貢の市場で買って、店で料理してもっらって喰った。うまかった・・・

市場では、でかくて青いナポレオン・フィッシュを浜から上げて、水槽に入れていた・・・
--
青柳洋介

2/28/2009

ベトナム

昨夜、ベトナムの酒を飲んだ・・・

やはり、漢字は面白い、ハノイが河内で、ホーチミンが胡さん・・・

サイゴンが、西貢・・・ 香港に同名の地、サイクンがある。ここで、海鮮料理を食った・・・


胡志明

を見ていると、台湾のプロゴルファー?

チン・シメイ

を思い出した・・・ ベテランで、しぶ~~~いゴルフをする人だった気がするが・・・

胡志明

を和風で読むと・・・

コ・シメイ?!?

コ・シミン?!?

小市民?!?

なんか、漢字って、不思議な感じ・・・ マジカル・ミステリー・ツアーができる。

PGAツアーとか、呼ぶんだっけ? こちらは、魔法の迷宮・旅行?!?


見っけ~~~

陳志明


陳 志明(チン シメイ)シェフ


誕生日: 1970年05月24日生
料理長の陳志明と申します。香港で生まれ育った私は兄の影響もあり調理人を目指し、10代の頃から福臨門やホテル帝都酒店などで修行を積み日本にやってきました。本場香港の広東料理を安全、安心を心がけてご提供させていただきます。皆様のご来店心よりお待ち申し上げます。
店名:金臨門粤菜酒家 横浜スカイビル店
業態:中華(広東)料理
住所:神奈川県横浜市西区高島2-19-12 スカイビル29F
TEL:045-441-4888
FAX:045-441-6888
主な経歴:




陳 志明 [チン シメイ]
Tze-Ming Chen

※プロフィールは2006年12月20日時点での情報です。

所属 筑波産商
生年月日 1952/09/28
身長 174cm
体重 68kg
血液型 O型
出身地 チャイニーズタイペイ
学校 酲吾中学 卒業
得意クラブ ドライバー
ゴルフを始めた時の年齢 8歳
ゴルフを始めた動機
ドライバー平均飛距離
ベストスコア
目標とする人



【Hanoi・河内】ハノイ

ベトナム社会主義共和国の首都。ソンコイ川に沿う。水陸交通の便に恵まれ、政治・経済の中心地。外港にハイフォンをもつ。人口107万4千(1992)。

【Ho Chi Minh・胡志明】ホーチミン

1.ベトナムの政治家。20歳頃に渡欧、フランス社会党・共産党に加入して独立運動に従事、第二次世界大戦中ベトミンを組織して抗日運動を指導。1945年ベトナム民主共和国を建て、初代国家主席(大統領)。植民地復活をねらうフランスに対して抵抗をつづけ、54年ジュネーヴ協定により独立を確保。労働党主席を兼ね、アメリカの支援する南ベトナム政権に対抗しつつ社会主義建設を指導。(1890~1969)

2.ベトナム南部の都市。旧称サイゴン。1976年ホーチミンを記念して改称。メコン川三角州の一隅に位置し、舟運により内陸に通ずる。米穀の集散地で、ベトナム最大の経済都市。人口301万6千(1992)



---Wikipedia

ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく)、通称ベトナムは、東アジア・東南アジアのインドシナ半島東岸にある南北に長い国家。北を中華人民共和国と、西をラオス、カンボジアと国境を接する。東は、南シナ海に面し、フィリピンと対する。

正式名称はベトナム語で "Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam"。略称は "Việt Nam" である。フランス語では "République socialiste du Viêt Nam"。 正式名称は「共和社会主義越南」という漢字に対応する。
公式の英語表記は "Socialist Republic of Vietnam" 、略称は "Vietnam"、または "SRV"。
日本語表記は「ベトナム社会主義共和国」。通称は「ベトナム」、漢字は「越南」(えつなん)である。「ヴェトナム」や「ヴィエトナム」という表記も使われる。

紀元前から北部ベトナムの紅河(ホンハー)流域一帯には東南アジア最古の青銅器文化として知られる東山(ドンソン)文化が広がり、原始的な部族国家群を形成していた。これがいわゆる古越人(後のベト族)である。また中国・紹興一帯を支配した越の末裔が、民族のルーツとの説もある。 秦始皇帝以後、千年にわたって中国王朝の郡県支配を受け、中国文化の影響が深く浸透したが、完全に中国化することはなかった。一方中部ベトナムではオーストロネシア語族系統の古チャム人(後のチャム族)がインド化されたチャンパ王国を形成していた。唐末五代の混乱で中国の支配が後退すると939年に最初の民族王朝呉朝が成立、以後越人の王朝「大越」が続く。大越は南のチャンパと抗争を繰り返したが、チャンパ領は14世紀に越都昇龍(タンロン)を2度攻略した制逢峨(チェーボンガー)の死後内紛で割拠状態に陥り、1471年以降大越黎朝(1428年-1788年)及びその諸侯である広南阮氏がこれらを各個撃破して南進し、広南阮氏は更に17世紀にカンボジア領であったメコン川流域まで併合して今日のベトナム領土が完成した。

2世紀頃から8世紀頃まで
北部 - 漢、隋、唐
南部 - 不明

11世紀前後
北部 - 李朝
南部 - チャンパ王国

13世紀頃

北部 - 陳朝大越国
南部 - チャンパ王国

現代ベトナムの出来事
1887年 - フランス領インドシナの成立(フランスによる植民地化)
1940年 - 日本軍の北部仏印進駐
1941年 - タイ王国とフランスが交戦。日本政府による仲裁。
1944年 - 凶作に加え、米軍の空襲による南北間輸送途絶や日本軍の要請を受けたインドシナ植民地政府による食糧徴発などが重なり北部(トンキン)を中心に200万人以上が餓死した。
1945年3月 - 保大(バオ・ダイ)帝が日本の援助下でベトナム帝国の独立を宣言
8月 - ベトナム独立同盟(ベトミン)がハノイを占拠(ベトナム八月革命)
9月 - ベトナム民主共和国樹立を宣言、ホー・チ・ミンが初代大統領に就任
1946年11月 - ハイフォン(海防)でフランス軍と衝突
1946年~54年 - フランスに対する独立戦争(第一次インドシナ戦争)
1949年 - フランスはサイゴンにバオダイを復位させ、ベトナム国として独立を認める。中国、ソ連は、ベトナム民主共和国を承認
1954年7月 - ディエンビエンフーの戦いでフランスは敗北、ジュネーヴ協定を結び、ベトナムから撤退、独立戦争終結。同時に、北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)に分断される。10月、南ベトナムではアメリカを後ろ盾にゴ・ジン・ジェムが大統領に就任、国名をベトナム共和国にする
1960年12月 - 南ベトナム解放民族戦線結成。
1962年2月 - アメリカはサイゴンに援助軍司令部を作り、軍事介入、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が始まる。
1964年 - トンキン湾事件。以降、1973年まで米軍が戦争に直接介入。
1965年2月 - アメリカは北ベトナム爆撃を開始、本格的な戦争に突入
1968年1月 - 南ベトナム全土で解放戦線・北ベトナムのテト攻勢、アメリカは大打撃を受ける
1969年1月 - 南北ベトナム、解放戦線、アメリカの4者によるパリ和平会談が始まる
6月 - 南ベトナムで、解放戦線は南ベトナム共和国革命臨時政府成立。ベトナム共和国と対峙。
1972年4月 - アメリカ・ニクソン政権は北爆を再開
1973年1月 - 南北ベトナム政府、臨時革命政府、アメリカの4者は、パリ和平協定に調印
1975年4月30日 -北ベトナムと解放戦線は春の大攻勢を行い、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領は全面降伏、サイゴンは陥落、ベトナム共和国崩壊。南ベトナム共和国の名の下に北ベトナムが実権を掌握。ベトナム戦争終結。[1][2]
1976年4月 - 南ベトナム消滅による南北統一。初の南北統一選挙を行う。ベトナム民主共和国をベトナム社会主義共和国に改名。
1978年12月 - カンボジア侵攻を開始。(第三次インドシナ戦争の始まり。)
1979年 - 中国との戦争(中越戦争)、世界各国は援助を停止し、ベトナムは孤立
1986年12月 - 社会主義型市場経済を目指す、ドイモイ(刷新)政策を開始し、改革・開放路線に踏み出す
1989年9月 - 国内経済が疲弊したベトナムは、カンボジアから完全撤兵
1992年 - 越中関係正常化
1995年7月 - クリントン・アメリカ大統領はベトナムとの外交関係樹立を発表、越米国交正常化
7月 - 東南アジア諸国連合 (ASEAN) はベトナムの加盟(7番目の加盟国)を認める
10月 - 所有権や契約の考え方を盛り込んだ、初めての民法ができる
1996年1月 - ASEAN自由貿易地域(AFTA)に参加する
1998年 - アジア太平洋経済協力(APEC)参加
2003年 - 日越投資協定締結
2007年1月11日 -世界貿易機構 (WTO) に正式加盟した。150番目の加盟国となった。
2007年10月16日 -国連総会で安全保障理事会の非常任理事国に初選出された。


日本との関係


ホイアンの日本橋。この橋は鎖国前の交易のあった頃に日本人によって作られたと言われ、今でも現地の人に大切に使われている。提灯にフェホォと書いてあるが、これは当時のこの町の呼称である。世界遺産。

西暦734年遣唐使判官・平群広成が帰国の途上、難破して崑崙国に漂流し抑留された。フエ付近に都があったチャンパ王国と考えられる。広成はその後、中国に脱出し、渤海経由で帰国している。753年には遣唐使藤原清河や阿倍仲麻呂が帰国の途上、同じく漂流し、当時中国領だった安南のヴィン付近に漂着した。東シナ海から南シナ海に南下する海流の関係でこのような漂流ルートが存在したようだ。これが縁で阿倍仲麻呂は761年から767年まで鎮南都護・安南節度使としてハノイの安南都護府に在任した。

14世紀から15世紀にかけて交易国家として栄えた琉球王国はチャンパ王国とも通好があった。17世紀になると朱印船がベトナム方面へ進出し、江戸幕府は北ベトナムの大越黎朝や南ベトナムの広南阮氏政権とも外交文書を交換し、朱印船が出入りした。ホイアン(会安)には日本人町も形成されている。朱印船はまた南遷していたチャンパ(占城)でも唐船(中国船)と出会い貿易を行っている。

ベトナムの通貨の名称はドンだが、これはベトナムの主要通貨であった銅銭を意味する越語ドンティエンに由来する。日本の銅銭・寛永通宝はその材質の良さから、東アジアの基軸通貨の一つとして流通し、国際取引の決済に使われていた。

1940年に日本軍は北部仏印進駐を行い、1941年には南部にも進駐した。これは、フランスのヴィシー政権との外交協議によるものであり、太平洋戦争中も、日本軍はインドシナ植民地政府と共存していた。その後、日本軍は1945年3月にクーデターでフランスの植民地政府・軍を取り潰し、ベトナムを名目的に独立(ベトナム帝国)させたが、間もなく敗戦となった。しかし、その結果生じた権力の空白はベトナム独立同盟に有利に作用した。また、駐留期間の大半においてフランスの同盟国軍として植民地政府に加担したことは、結局のところ日本もフランスと同類の帝国主義国に過ぎないという印象を与えることになった。

第二次世界大戦末期の1945年に、ベトナム北部で大量の餓死者が発生した。日本の一部のグループはその原因を日本軍による大量の食糧徴発とし、推計200万人に近いベトナム人の餓死者を出したと主張しているが、餓死者数については正確な人口統計がないため明確には把握できていない。ただし、ホー・チ・ミンが独立宣言の中でフランス/日本の二重支配によって200万人が餓死したと演説しており、ベトナム国内ではこの200万人という数字は広く知られている。また食糧不足の原因についても、元来北部紅河デルタ地帯は人口過剰の割に収穫の少ない食糧飢餓地域であり、常に南部メコンデルタ地帯から輸送される米により人口が維持されてきたものが、連合国による爆撃により海上ならびに鉄道による食糧輸送が壊滅状態に陥ったためとも言われている。また、日本への反感を高めるためにフランスがサボタージュしたとも言われているが、日本軍自身も明号作戦の発動など、対フランス関係の整理で手一杯で、ベトナム人の餓死に対して鈍感であったとも言われている。いずれにしろ、この件につき、日本に対しベトナム政府は外交問題として取り上げたことはない。より多くのベトナム人が、その後の第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争で亡くなっているためと考えられている。

戦後、フランスが再び進駐してくると、仏軍とベトナム民主共和国軍の間で戦争(第一次インドシナ戦争)が始まったが、仏越両軍に日本軍兵士が多数参加した。当時、ベトナムには766人の日本兵がとどまっており、1954年のジュネーヴ協定成立までに47人が戦病死した。なかには、陸軍士官学校を創設して、約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。なお、ジュネーヴ協定によって150人が日本へ帰国したが、その他はベトナムに留まり続けた模様である。

1951年に日本政府はベトナム国(南ベトナム)と平和条約を締結し、1959年には岸信介首相(当時)がベトナム共和国政府と140億4000万円の戦争賠償支払いで合意した。一方、ベトナム民主共和国(北ベトナム)は戦争賠償の請求権を留保したが、1973年に外交関係が樹立するまで日本と北ベトナムは国交のない状況が続いた。
近年、日本企業のベトナム進出が相次いでいるが、その要因として中国の半分から3分の1ともいわれる賃金、AFTA(ASEAN自由貿易地域)の推進に伴ってASEAN域内への輸出拡大が見込める点、さらには中国一極集中のリスクの回避などが挙げられる。

現在、両国の関係は「緩やかな同盟関係」と評されている。ファン・ヴァン・カイ前首相は親日・知日家で知られており、また、日本政府や経団連も積極的に経済援助を行っている。一方、グエン・タン・ズン新首相は親中派で日本に対する関心が低いと一部報道で伝えられており、今後の両国の関係を懸念する向きもある。

日本共産党と全教は1993年よりフエ市でストリートチルドレンの保育・教育施設「ベトナムの子どもの家」(小山道夫氏、日教組分裂 1991.3.6 以前の都教組委員長 主宰)を運営している。小山氏自身は共産党員であるが、旧社会党系(現 民主党及び社民党)の活動家・政治家と親しく、1994.6.30~1997.11.7 の自社連立政権下においてはフエ省知事顧問として複数の日本ODA事業をフエに導入することに成功し、地元の信頼を勝ち得た。小山氏を支援する「ベトナムの子どもの家を支える会」の活動も盛んであり、民主青年同盟(民青)、革新自治体の青年・学生組織及びピースボートと交流を行っている。

2007年2月27日にはベトナムを南北に縦貫する高速鉄道の建設に向けて両国間で共同委員会が設けられた。委員会には日本から国際協力機構(JICA)、国際協力銀行(JBIC)、日本貿易振興機構(JETRO)が、ベトナムからは計画投資省、運輸省、ベトナム国鉄が参加した。


地理

ベトナムの国土は南北1,650km、東西600kmに広がる。インドシナ半島の太平洋岸に平行して南北に伸びるチュオンソン山脈(アンナン山脈)の東側に国土の大半が属するため、東西の幅は最も狭い部分でわずか50kmしかない。細長いS字に似た国土の形状を、ベトナムでは米かごを吊るす天秤棒に例えている。天秤棒の両端には大規模なデルタが広がり、人口の7割が集中する。北のデルタは、紅河(ソンコイ川)によるもので、首都ハノイのほか港湾都市ハイフォンが位置する。南のデルタはメコン川によるもので、最大の都市ホーチミンを擁する。

沿岸の総延長距離は3,260km、北部国境(中国国境)の長さは1,150km、国境の総延長距離は、6,127kmである。

沿岸には北部を除き、島嶼がほとんど存在しない。本土から離れた領土としてホーチミンから約600kmの東、南シナ海に浮かぶチュオンサ群島(スプラトリー諸島、南沙諸島)と、ダナンの約400km東のホアンサ群島(パラセル諸島、西沙諸島)の領有権を主張している。チュオンサ群島は一部を実効支配し、ホアンサ群島は全体が中国の実効支配下にある。ベトナム最大の島は、最西端の領土となるシャム湾に浮かぶフークォック島である。

主要な河川は紅河(支流であるカウ川、ロー川、ダーツ川)、ダンホアに河口をもつカー川、中部のバー川、南部のドンナイ川、メコン川である。天然の湖沼はデルタに残る三日月湖がほとんどである。最高峰は北部国境に近いファンシーパン山 (3,143m)。アンナン山脈中の最高峰は中部のフエやダナンに近いアトゥアト山 (2,500m) である。

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